日別アーカイブ: 2011年4月3日

地震の時のこと

ニュースで今回の地震を東日本大震災と統一して呼ぶようにしたと言っていました。
NHKでは東北関東大震災と言っていたのでこの呼び方には
私の中ではちょっと違和感がありまこした。

大正時代の関東大震災とだぶってしまうのです。
関東大震災は大正12年(1923年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒(以下日本時間)、
神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生した
マグニチュード7.9の地震で、死者行方不明者は10万5000人余りとされています。

明治38年生まれの祖母は震災の時には高台の省線(今の山手線)のホームにいて
高台だったのであちこちに火の手が上がるのが見えたという話を何度も聞きました。
ホームに四つん這いになって立っていられなかったことや
やっとの思いで歩いて帰る時にバナナを売っていて
買いたかったのだけれどバナナはとても高くて
そのバナナと金時計をある紳士が交換してしたという話もよくしていました。

その祖母もずいぶん前にあちらの世界に行ってしまったのですが
もう少しいろいろな話を聞いておきたかったと思いました。

今回の東日本大震災では「人のつながり」が地域の再生を促すというテレビをこの頃よく見ます。
地域で一致団結してリーダーを決めて乗り切っている人々たちがたくさんいます。
人間の力は本当にすごいものがあると底力を感じています。

仙台ではアパートの隣に大家さんの家があります。
地震があった時の夜は電気も水道もガスも使えずまっくらな夜でしたが
夕方6時くらいにドアをノックしてくれて
反射ストーブもあるし、温かい豚汁も作ったのでうちにいらっしゃいと1軒1軒声をかけてくれました。
大家さんの玄関の前には夜の間ずっとランタンが照らされていて
真っ暗な中で窓の外に明かりがあるのがとても安心できました。

朝はまたドアをノックしてくれて、温かい炊きたてのおにぎりを持ってきてくれました。
今まで挨拶くらのお付き合いでしたが、本当にうれしかったです。

山形に避難するの時にも家にあるものをみんなで分け合ったり
山形から仙台に戻る時にもまだ仙台は断水していたので
ペットボトルにたくさん水を汲んで大家さんに持って行きました。
下に住んでいる人にもペットボトルのおすそわけをしました。
ほんの気持ちでしたがとても喜ばれました。

山形から仙台に2度目に来た時には
ガソリンがなくて買い物に行けないご老人たちや食糧に困っている方たちに
プロテスタントの教会を通じて物資を運んでもらうプロジェクトに物資を寄付できました。

小さな地域での助け合いがどんなに勇気づけられることか
少しの物でも分け合う、情報を交換することで、客観的に物事を見ることができるなど
普段があまり使われていない危機管理能力が全開するような気がしました。